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戦争と感謝

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パンデミックによる世界的な自粛ムードが沈静化するにつれて、様々な事件や紛争が目に付くようになってきました。なかでも国と国同士の紛争、宗教と宗教の紛争が日に日に拡大しています。いつまでこの紛争が続くのだろうか、紛争が飛び火するのではないか、と不安を抱いている人も少なくないことでしょう。 世界大戦が勃発するのではないかという漠然とした不安感が世界を覆っているようにもみえます。 そう遠くない過去に世界大戦と呼ばれたもの、 あるいは長期間に渡る地域紛争というものがありました。人間の貪欲さ、互いの憎悪の連鎖、不安からくる過剰な防衛、そういった人間の弱さがこれらの戦いを生んできました。 同じ過ちを犯さないためには、私達は心を強く持つ必要があります。全ては神が与えてくれている、地球上には私たち人間が生きていくために十分な資源、食物があるという信念を持ちましょう。 必要以上にモノや権力を欲しがったり、他人のモノを自分のモノとしたがったり、そういう貪欲さがあなたの心を乱し、不安を引き起こします。不安の連鎖、不安の集合体が大きな争いを引き起こしています。 「足るを知る」という言葉があります。まずは今現在自分に与えられているモノ 、機会、仕事、人間関係、家族 …、それらに感謝をしてみましょう。仮にあなたが今得ているものをすべて失ってしまうことを想像したら、普段あなたが抱いている不平や不満など取るに足らないものに見えることでしょう。しかしながら戦争とは、まさにすべてを失ってしまう機会となってしまいます。 今あるものに感謝しましょう。与えられている環境に感謝の種を見出しましょう。そして感謝は神に対して行ないましょう。 感謝は神に届き、神は喜び、より多くのものをあなたに与えてくれましょう。神を愛するものが 神に愛されます。 神に楯突くものは神から疎んじられます。 でも神は、楯突く人さえも決して見捨てません。必ずやそういった 方達をも救い出そうと手を差し伸べ、そして神の方を向くように仕向けています。そうやって結果として全員が神の方を向き、神に向かって歩み始める、そういう仕組みになっているのです。 もしこれ以上の戦い、国と国、地域と地域、宗教と宗教、個人と個人、形を問わず争いを避けたいのであれば 、ひとり一人が今持っているもの、今与えられているものに感謝の気持ちを持つことが必要です。感謝をする者が

動機の転換

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 ごく当たり前の話ですが、物事には順序があり、原因があって結果が生じます。「自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならない」という戒めも当たり前のことを伝えているに過ぎません。  逆説的に考えると、今自分が置かれている境遇や環境というものは、過去に自分が蒔いた種が原因となって、現在の結果に至っていると言うことができます。過去に行なった自分自身の選択の結果が今を作っているのです。  そう、「選択」という言葉がキーワードです。私たちは「選択」という行為を内心で行なっています。その時々の自分の価値観、プライオリティ、思考パターンなどが「選択」を行なっています。これらをひっくるめて「動機」ということができるでしょう。現在は結果であり、結果には原因があり、原因は「動機」が作っているのです。  私たちの潜在意識(Ego)には、良いエゴと悪いエゴがあります。ごく単純に申せば、良いエゴは公共性を大切にするもの、悪いエゴは自分本位ということです。 前者は神(創造主)からそれぞれに託されたものであり、後者は動物でもある人間が本能的に持ってるものでもあります。  既存宗教を含めた多くの霊的な教えでは、私たち人間は悪いエゴを駆逐して良いエゴを体現できるようにすることが、この世を生きる目的であると伝えています。この事を、解脱、魂の進化、霊的向上、大我の発出、霊性成就、意識体浄化等々、様々な表現の仕方をしています。  もし現在のあなたの内心(結果)が、絶望、恐れ、不安、後悔、焦り、暗黒、行き詰まり、取り越し苦労、落ち着きのなさなどに苛まれているとしたら、過去の選択の動機(原因)が悪いエゴだったからという可能性があります。  外見上この世的に成功しているかしないかという問題だけで内心は語れません。この世的に成功していたとしても、あるいは幸せそうに見えたとしても、その方の内心はその方にしかわかりません。もしかするとその方は、ずっと内心の休まらない思いをしていらっしゃるかも知れないのです。  一方で、この世的に決して恵まれているとは言えない境遇に置かれていても、内心が幸福感や充実感に満たされている方も大勢いらっしゃいます。こういう方はその選択にあたっての動機が神(創造主)から託された潜在意識に基づいているのかも知れません。この幸福感や充実感は神から祝福を受けているということもできるのです。   過去のこ

敏感さんは自らを助く

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 敏感さん、センシティブ、霊感体質etc…と呼ばれている方がいらっしゃいます。場の雰囲気を感じ取る能力だったり、相手の内心を感じ取ったり、あるいは目に見えない存在を感じ取ったりする能力が、一般の人よりも長けている方々をそう呼んでいるようです。  こう言った方に限らずとも、私たちは多かれ少なかれ人や場が発している雰囲気を感じ取っています。それを「空気を読む」という表現をすることもあります。世界のあちらこちらで煽動された暴徒による混乱が発生しているのも、その場の「空気感」が一般の人々をそうさせていると言っても良いでしょう。   敏感さんの中には辛い思いをしている方が少なくありません。混んでいる電車や人混みの中に長い時間いられない。相手のパーソナリティを増幅して感じ取ってしまうので、人間関係の維持に余計なエネルギーを使いがち。普通の人から見ると「よく気が付く人、気の利く人」と見られてしまって、仕事の負荷が増えがち等々。  リアルな人間関係、社会生活の中でのデメリットは耐性をつけていくしかありません。人間のパーソナリティには様々な形があることを学び、理解して、相手ごとに自分の対応方法を変えていくという実践を積むしかないのかも知れません。ある意味で時間、経験、年齢が解決していってくれるとも言えますし、心理カウンセラーの領域とも言えます。   厄介なのは人混みや、目に見えない存在からの影響です。 私たちが肉体をまとって生きている三次元世界(現世)は、霊界の一部、というより特殊な形式をした霊界です。 (この辺りを説明しだすと膨大な量になりますし、今回のテーマから外れますので詳細は省きます。ご興味のある方は講座に足をお運び下さい)   肉体をまとっているおかげで多くの人はその事実に鈍感なだけですが、先ほどから述べているように、敏感さんはそれを一般の人より鋭敏に感じ取ってしまいます。人混みが発してる雰囲気はそこにいる人間が発しているものもありますし、様々な目的でそこに一緒に存在している霊が発している場合もあります。  類は友を呼ぶと言いますが、その法則は私たち人間と霊界との関係性でも言えることです。私たちの内心の状態に近しい霊が引き寄せられて、お互いに影響しあっています。 これは敏感さんでも鈍感さんでも変わらない事実です。  内心が、愛や善意、親切心に溢れている方にはそういった霊が惹

Q&A: スピリチュアルカウンセリングはどの位の間隔で受けたら良いですか?

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 スピリチュアルカウンセリング と聞いて、皆さんはどのようなものを思い浮かべるでしょうか?本題に入る前に少々用語の整理からさせていただきます。  再三指摘させていただいている通り、日本ではスピリチュアルという言葉が際限なく広い意味で使用されているために、 スピリチュアルカウンセリング と名乗るものも実に多くの形式があるようです。  例を挙げれば、実態は色彩心理学から派生したカラーセラピーであるのに、スピリチュアルカウンセリングと看板を掲げる方もいらっしゃるようです。なぜカラーセラピーではダメなのか疑問に思います。  日本で スピリチュアルカウンセリング という造語が一般化したのは、 スピリチュアルカウンセラー と名乗る霊媒師が、2000年前後にメディアに登場して活躍するようになったのが起源と考えられます。   その霊媒師は当時、 英国スピリチュアリズム に関わる 霊媒(ミディアム) の手法でセッションを行なっていましたし、実際に英国スピリチュアリズムの霊媒養成機関で学んだという事実は、彼が明らかにしている経歴でもあります。  ですから、英国スピリチュアリズムを標榜する霊能者であるのなら、 ミディアム あるいは サイキックミディアム と名乗るのが穏当でありましょう。  さて、その英国スピリチュアリズムの範疇でスピリチュアルカウンセリングに当てはまるものは何かと考えた時、 プライベートシッティング(private sitting) が相応しいでしょう。プライベートシッティングとは、霊媒が 仲介者(medium、ミディアム) となって、この世の人間と霊界の住人のコミュニケーションを実現する事です。   霊界の住人とは既に亡くなった知人や近親者の場合もあれば、人生のコーチ役である 指導霊(守護霊や背後霊と呼ぶ方もいます) の場合もあります。質問者様はこのうちの 指導霊とのセッション の事を指していらっしゃるとの前提でお話を進めます。      プライベートシッティングの中でも指導霊とのセッションは 「霊的査定」 と呼ばれています。   指導霊はあなたの人生を俯瞰して、時には優しく、時には厳しく監督しながら、今回の人生で学ぶべきもの、身につけるべき徳性等が得られるように援助してくれている存在です。  セッションで指導霊は、 あなたが生まれる前に描いた人

あなたはスピリチュアリストですか?

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  スピリチュアリストとは「霊性を重視する人物」のことです。自分自身の霊性、相手の霊性、事象の霊性etc…  霊性を重視する人物ということは、様々なことがらに対して、その内面にあるものやその意義といったものに重きをおいて物事を判断し、行動する人物と言うことができます。  ですから本当のスピリチュアリストは、まず自分自身について、見栄や虚飾、偽善を嫌い、自らの内面性(霊性)が穢(けが)れないように、自分自身にある未熟な部分や悪と戦い、それらを排除しようと努力しています。  また自分以外の誰かを評価する場合でも、その人の言動や振る舞いに惑わされずにその方の内面性(霊性)で評価しようと冷徹な目を持つように心がけています。  自分の身近な環境、あるいは世界で起きている様々な事象についても、扇情的なものは排除、そして可能な限り俯瞰して判断することで、事象の本質を評価し、その本質から学び取ろうと努力しています。  このように描写するとまるで堅物の修行僧や研究者みたいなイメージになってしまいますが、本当のスピリチュアリストは、同時に創造主への信仰や信頼があるので、楽天的でとても明るい雰囲気を醸し出してもいます。      世間一般では、スピリチュアリストとは「スピリチュアルに興味がある人」「スピ系に関わっている人」「スピリーダー」「霊媒」etc、の事を指している様に思われがちですが、そうではないのです。  スピリチュアリストとは、その方の考え方、生き方、信念、信仰まで、全人的な人物像を指す言葉なのです。  さて、本来の意味のスピリチュアリストの哲学的、思想的バックボーンになるものは「霊的真理」と呼ばれているものです。  霊的真理は何世紀も前から様々な形で伝え続けられているものですが、近年は「スピリチュアリズム」がその役割を担っています。  霊性を重視するということは、人間の霊的側面、単刀直入に言えば人間の本質は霊であることを認めることができなければ、そもそもスピリチュアリストという土俵に上がることはできません。  ひいては霊の世界の存続を認めること、さらには神法とも呼べる法則の存在を認めることで、スピリチュアリストの哲学的バックボーンは強化されるのです。  筆者自身はというと、おこがましくて、自分を「スピリチュアリスト」と名乗ることはとてもできません。  いつの日かそう名乗れるよ

死を考えることは生き方を考えること

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ある日のワークショップ。 瞑想の時間に、ある受講生の方が「私はどう死にたいのだろう?」という所に初めて意識が向いたとお話ししてくれました。 その時点ではその方は答えを得られていないようでしたが、近い将来にきっとその方なりの理想像を得ることができると思います。 とても良い視点を持たれたことで、これからの人生をより充実させることができることと思います。     「死を考えることは生き方を考えること」でもあります。 私たち人間は否応なく死に向かって人生を歩んでいます、例外はありません。 今世の卒業式である「死」の瞬間をどう迎えたいのか、更に言えば、死後にどういう境遇でありたいかということを考えることはとても有意義なことです。 理想の死に方をイメージするのが難しければ、どんな死に方は避けたいかを考えても良いでしょう。 例えば…   長い闘病生活は嫌だな… 介護で世話をかけるのも申し訳ないな… 遺品整理で面倒をかけたくないな… 孤独死は嫌だな… 自分が死んだ事を喜ばれるのは悲しいな… etc そして、避けたい死に方の反対が理想の死に方になります。   できるだけ長く健康で、何かの役に立っていたいな… 亡くなる直前まで自分のことは自分でできるようでいたい… さっぱりと清々しい気持ちで最後を迎えたいな… 少人数で良いから見送られながら逝きたいな… 少しは惜しまれて旅立ちたいな… etc こうして考えていくと、 心身の健康を保つ努力をしなくっちゃ… 他人のためになるスキルなり知識を持たなくっちゃ… 所有するものは少なくしておこう… 人間関係を断つようなことやわだかまりを残しておいてはいけないな… 人柄を良くしておかなくっちゃ… etc というふうにこれからの生き方の目標が明らかになってきます。 目標のある人生と、ただ時間を潰すだけの人生では今後の生活へのモチベーションは自ずと違ってくるでしょう。 死の瞬間に感じる充実感も違うことでしょう。 更にあちらの世界に行ってから、人生を振り返ってみた時の自己評価も多分に違うことでしょう。 「死」は決してネガティブなものではありません。 寿命を全うして死を迎える限りにおいては、この世からの卒業式であり、祝福されるものであります。 あなたはどんな卒業式を迎えたいでしょうか?

Q&A 霊訓の厳格さについて行けません

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【質問】   スピリチュアリズムの霊訓は道徳性を説いていると感じます。それを真面目に守っていると損をしている気持ちになることもあるし、霊訓には厳格なところもあるので投げ出したくもなります。どうしたら良いでしょうか?   【回答】    子供の頃、雑誌の付録や工作の時間などで何かを組み立てたり、算数の時間に画用紙で立体図形を作ったりした経験はどなたにでもあることでしょう。男の子の場合でしたら、プラモデルを作った経験は一度くらいはあると思います。そういった場合、必ず糊や接着剤用の 「のりしろ」 と呼ばれる余剰スペースがありました。   「のりしろ」 があるおかげで上手く綺麗に組み上がりました。仮に 「のりしろ」 が無いままに組み立てようとしたら、組み立てに苦労するでしょうし、安定性や耐久性に欠けるものが出来上がることでしょう。  また、自動車をはじめとした機械類には、操作する部分に 「あそび」 と呼ばれる余剰部分があります。ハンドル、アクセル、ブレーキ、クラッチ等にある、操作してもすぐには反応しないための機能です。 「あそび」 はドアや窓といった建具、あるいは日本中に張り巡らされている電線にもあります。暖かい時期に電線をピンと張ってしまうと、気温が下がった冬などには、内部の銅線が緊縮してしまい断線する可能性があるので、電線を張るときは余裕を持たせて張るのです。  以上のような 「 のりしろ」 や 「あそび」 というものがなくなってしまったら、かえって脆くなったり、意図しない急激な変化が生じて危険性が増したり、融通性が無くなることでちょっとした変化に対応できなくなってしまいます。  これと同じく、精神衛生上、私たちの心にも 「のりしろ」 や 「あそび」 を持つことは大切なことです。    さて、スピリチュアリズムがもたらした霊訓に限らず、既存の宗教の多くは、人の生き方として ”善なる道” を説いています。それを 道徳 と捉えても間違いではないと思います。しかしながら自分で考える事をやめてしまい、霊訓や歴代の聖典に述べてある事を鵜呑みにし、その説く道から一歩もはみ出さない事だけを生き方の信念としてしまったらどうなるのでしょう?おそらく精神的に苦しいだけの人生になってしまうのではないでしょうか。   中にはそういう苦しみの中に身を置く事で、自分が成長できているように勘違いを

スピリチュアリズムの学び方

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 スピリチュアル界ではマイナーに思われがちなスピリチュアリズム。私もずっとそうだと思い込んでいました。しかしながら、ネット検索で見つけて個人セッションを受けに来られる方にインタビューしてみると、意外や、スピリチュアリズム関連の知識を持たれている方や霊的な体験をされている方が多数。  興味本位でいらっしゃる方は皆無で、皆さんそれぞれに人生の岐路で思い悩んだ末にたどり着いたご様子です。多数派とは言えないまでも、世の中の心ある方に、ひっそりとじんわりとスピリチュアリズムって浸透しているんだなぁと認識を新ためる経験をさせていただいています。   スピリチュアリズムの勉強というと、他のスピ系と混同されることが多く、超能力開発や霊能開発ばかりやっているように誤解されがちですが、現実は違います。 確かにそういった不思議な能力を持った人がスピリチュアリズムの普及に一役買っているのは事実です。しかしながら、言い過ぎかも知れませんが彼らは広告塔の役割を担っているに過ぎません。  スピリチュアリズムの学びの本質は、現実世界での「生き方」を学ぶ事です。その際お手本になるのが、スピリチュアリズムの長い歴史の中でもたらされてきた「霊界通信」の数々です。その中でも高尚な存在からもたらされた「霊訓」と呼ばれるものが教科書的なものと言えるでしょう。    三十年近く前、私は、マネジメントゲームの創始者のお一人である西順一郎先生の下でマネジメントを学んでいた時期があって、当時、西先生に薦められるままに様々な「霊界通信」を読んでいました。とても為になる内容が書かれていることはわかりましたが、その頃の私が、その内容に得心していたかどうかというと、疑問符がつきます。 数々の為になる文章は、知識として記憶の片隅にしまいこんでいました。  その後、山本貞彰先生の下でスピリチュアリズムをより深く学ばせていただく機会に恵まれました。山本先生には知識を付けていただいたのは言うまでもなく、さらに先生のご指導をいただきながら、目の前に湧き起こる様々な現実の問題に、スピリチュアリズムの智慧を活かして対処していくことも学ばせていただきました。  山本先生の下で何年かご指導いただいているうちに、本当の意味でスピリチュアリズムの智慧が役に立ち、さらに自分のものになったと言えるようになりました。それ以来スピリチュアリズムがもたらし