「悟る」ということ
仏教を信じ、その道を極めようとする方にとっては、「悟りを開く」という事が重大な意味を持つようです。
一応仏教国の一つと言われているこの国に住む私たち日本人にとっても、「悟りを開く」という言葉には、神秘的で、高尚、かつ得難い境地を連想させるに充分な響きがあります。
長い長い苦行や荒行の結果、やっとたどり着くような境地というようなイメージもありますね。
でも私たちは、日常生活でも「悟った」という言葉を使います。
「悟る」とか「悟りを開く」ということは上記したような一大事なのでしょうか?
悟りを開いた元祖と言えるのは、紛れもなくゴータマ・シッタルダ(釈迦)でありましょう。
彼は何を持って悟りを開いたと述べたのか?
既にあちらの世界にいらっしゃる本人から聞くことはできませんし、多くの仏教書でも悟りの核心は述べられていないようです。
たとえそれを聞く事ができたり、著述が残っていたとしても、私たちはゴーダマ本人ではありませんから、彼と同じ体験をすることはできないことは容易に想像できます。
つまり私たちなりに悟っていくしかないのでしょう。
悟りは気づきに似ていると考えます。
今まで自分自身の範疇になかったことを知った時、私たちは「気づいた」と言います。
それは自分自身の内面性に関することだったり、社会の仕組み、経済の仕組み、人間関係の機微など多岐にわたります。
そういった身の回りの小さな気づきから始まって、気づきが自分自身のものになっていく過程を経て、徐々に自分の範疇というものは広がって行きます。
自分の範疇が広がるにつれて、自分の意識はより広大でより高尚な領域に踏み込んで行きます。
つまり、世界を支配している法則、宇宙の仕組み、自己の存在理由 etc 、こういったものに気づきを得るようになってきます。
このような段階に達した時、それは今までと同じ「気づき」ではあるのですが、「悟る」というレベルにあると言えるでしょう。
「悟りを開く」第一歩は、小さな気づきから。
日々を大切に、自己点検しながら生活する事が大切ですね。